クセ強なやきもの商社「丸兄(まるけい)」看板を追いかけて
- 山本千尋

- 7月15日
- 読了時間: 9分

でっかい「丸兄」という文字と、「有田焼のデパート」のパワーワード、ニヒルな笑みを浮かべる黄色いスーツの男性……。
強烈なインパクトを放つ看板、そして、それをゆうに越えてくる実店舗のさらなるインパクトに度肝を抜かれました。あの男性の正体、そして、歴史あるお店の実体に迫る本記事の後編です!
黄色いスーツで中折れハットの男性の正体は?

――ずっと看板で気になっていたあの男性ですが、お店を訪れてようやく判明いたしました。

――……いや、すみません。やっぱり分からないです! お名前は「丸兄公敏」さんとおっしゃるんですね。 演歌歌手をされているのですか? 「丸兄」って苗字なんですか?ああ、どこから聞いていいのか分からない!
野田さん(「株式会社 丸兄商社」フロアマネージャー):その方は現会長で、ポスターに書かれている「丸兄」は芸名ですね。本名は野田公敏といいます。私にとっては夫(現社長)の父にあたります。
――あっ、やはり偉い人でしたか! そして会社の役員さんはご家族なんですね。会長ご自身が広告塔になられているとは。
そうですね。看板の設置は会長が当時社長をされていた頃です。自分の顔がバーンと載ることが夢だったみたいですよ。とにかく宣伝にはお金をかけていて、それで、あれだけの数が増えていったんですね。
――まさかCDも出していらっしゃったとは。
社長の代を夫に譲ってからは、夫婦でよくカラオケ教室に通われてて。そこで作曲家の先生とお知り合いになって、CDを作ることになりました。筋が良かったようです。その後も音楽関係の方々と縁が繋がり、3枚目までリリースしています。

――記念に1枚!で終わらないところがさすがです。CDは実店舗で販売されてるんですね。
はい。でも、それぞれの在庫数はちょっといま把握していないんですけれど……。

―看板になって、CDも出して、テレビや新聞などにも積極的に出演。いわゆる「名物社長」でありつつ、アグレッシブなお店づくり。ゴリゴリの経営手腕だったのかなと、お店をぐるっと見て回って感じました。
まさに、お店が現在の広さになったのは公敏会長の代からなんです。平成9年頃からかな。もともと実店舗はありましたが、現在ほどの大きさではありませんでした。「店舗での販売に力を入れよう」と、駐車場から売場、業者さん向けの展示場まで、毎年のように工事をしていたんです。
ちなみに、この三階建ての建物は、かつて店舗兼自宅でした。もともと最上階の「一億円の間」は公敏会長のお母様が住んでいらっしゃったお部屋なんですね。(お母様が)亡くなられてからは、すぐに家業に気持ちを切り替えられて、続々と店舗に改装していきました。
ちなみに新しくセレクトコーナーとして立ち上げた「MARUKEI」のある場所は元倉庫で、さらに遡ると盆正月に親戚が集まっていた広間だったりします。



――気持ちがパワフル。根っからの商売人気質なんですね。
創業者である野田 嘉四郎(のだ かしろう)の意志を継いで、日本各地を飛び回っていましたからね。いわゆる外交営業です。現在は店舗販売にも軸足を置いていますが、かつてはそっちがメインだったんですよ。
有田焼の直売を最初に始めた創業者・野田嘉四郎さんのDNAをいまに継ぐ

――はじめは外交営業からのスタートだったんですか。丸兄商社さんのルーツに繋がるお話ですね。
丸兄の創業者・野田嘉四郎は、有田焼の直売を最初に始めた人なんです。10人兄弟の次男として生まれましたが、父と兄を早くに亡くし、20歳の若さにして家族を養わなければなりませんでした。そこで、当時主流だった焼き物の卸売りではなく、みずから旅館やお店に足を運んで売る商売を始めたんです。
――直売というと、卸売を通さずに販売するということですね。
はい。大正九年のことで、その先駆けとなったのが嘉四郎だといわれます。それ以前の明治期に窯元たちが東京に出向いた例もありますが、それは卸売が主だったようです。
――20歳にして家業を支えなくてはいけない立場とは、相当なプレッシャーだったでしょう。
なので、“残った兄弟みんなで丸く輪になり、家を支えていこう”という想いを込めて、屋号を「丸兄」にしたと聞いています。

――商売への決意がそのまま屋号に。顧客を一軒一軒訪ねて足で稼いできたお仕事が、のちに公敏会長へ、そして現社長へと受け継がれていったんですね。
公敏会長は嘉四郎の甥になります。野田家の男性はみな外営業が多かったんですね。かつては新潟と秋田の二拠点を構え、東北エリアまでを商圏としていました。昔はアナログな時代ですから、商談から販売、市場調査や新規開拓など休む間もなくて……いや、休まないのは今も同じかもしれませんが。
さきほど申し上げた通り、公敏会長が社長だった頃に一度外交は辞めたのですが、現社長の代になってもしばらくは出張続きでした。私も一度同行したことがありますが、一日に何箇所も回ってヘトヘトでした。観光する余裕なんてありませんでしたよ。
――まるで泳ぎ続けるマグロのよう。嘉四郎さんのDNAはしっかり引き継がれている。経営の波はいかがでしたか。
会長の代はバブル全盛期、現社長の代はやや不景気ではありましたが、おかげさまで赤字にはなりませんでしたね。
――おお、すごい!
でもやはり、コロナ禍では出張も制限されてしまったので、販売方法を店舗集中型に切り替えて。ECサイトもリニューアルのタイミングだったので、商品の撮影や魅せ方を工夫したりと力を入れましたね。なんとか軌道に乗り、ふるさと納税にも出品することができました。
――親子それぞれのやり方で経営を盛り上げていらっしゃるんですね。ちなみに、父としての公敏さんのお顔ってどんなだったんでしょう。
とにかく商売一家、その道一筋で。ストイックな面も非常に多かったと思います。けれど社長は会長のことを尊敬していると、いつも口にしていますよ。

ーー寝ずに働いてらっしゃるイメージですもんね……。ろくろや絵付け体験を始められたり、自社工房での制作を始められたのも、公敏会長ですか?
そうですね、たくさんの方々が体験にお見えになりました。珍しいパターンもあって、体験の常連さんだったカップルの方々が「結婚式の引き出物に焼き物を作りたい」とご相談に来られて。1ヶ月ぐらい、当時空いていたお部屋で寝泊まりしていただきながら、制作に励んでらっしゃいましたよ。
――お買い物にとどまらない“体験”。「億の間」もですが、しっかり観光地としての使命を果たしていらっしゃいますね。
そうですね。実は「億の間」って自然とそう呼び名がついて。なんせ部屋が多すぎるから、スタッフ同士やお客様に対しても「あそこ」とか「ここ」とかでは通じるのも限界があるじゃないですか。それで、億の間に関しては、同じフロアにあった高価な焼き物を寄せ集めて名前を付けてみた形で。当時は観光バスツアーのお客様が非常に多くて、「三億円の間です」ってご案内するととても分かりやすくて、リアクションも良いんですよね(笑)。やっぱり呼び名は必要だなって。そこから他の部屋も「第5倉庫」とか「第3展示場」とか、マッピングが明確化していきました。
――まさか名前があとからついたパターンだとは。ちなみに、億の間の商品って売れたことあるんですか……?
ありますよ。やはり美術品に目がない方はお買い求めに来られます。また、これは社長と私のアイデアで始めたんですけど、毎年「有田陶器市」※1のシーズンに、こうした美術品の福袋を目玉商品として出しているんですよ。
※1 「有田陶器市」
有田焼の窯元や店舗が約400軒並ぶ窯業圏屈指の一大行事。毎年100万人以上が訪れる。
――えっ、それはどんな!?
陶器市の開催回数に応じた金額で販売しています。例えば今年なら(2026年)第122回なので、122万円相当の美術品がセットになっています。年々一万ずつ増えていきますが(笑)。
――もはや祭りですね。
お店の一角に赤絨毯を敷いて、キラキラ飾りつけをして、ラインナップもお見せして。最初の方は気合を入れすぎて「逆に安いのでは?」と言われるぐらいサービスしすぎました。おかげさまでこれが好評で、毎年売れます。
――やはり、有田町の一大行事。お客さんも売る側も気合の入り方が違いますね。
すごいんですよ、陶器市は。丸兄では、開催の数ヶ月前から会社内で全体ミーティングを行います。ろくろや絵付け体験を含め、各売り場でアイデア出しを。目玉商品のコーナー作りや仕入れを行って当日を迎えます。みんなヤル気が高いものだから、自然と部署同士で売上競争が起きたりします(笑)。
――商売の楽しさとアグレッシブさが、スタッフさんにもしっかり引き継がれている!

時代と共にうつわとあゆむ
有田で初めてうつわの直売を家業として始めた嘉四郎さんから、バリバリの手腕で店舗を拡大した公敏さん、そして、その道を守り続け、次世代へとつなぐ現社長夫妻。
「やはり商売人の血筋なんでしょうね。24時間ずっと仕事のことばかり考えています」と須美子さんは苦笑する。
新たな空間づくりも始めた。さきほどお見せした「MARUKEI」もその一つだ。さらにその前には、元倉庫を活用してホテルや旅館、居酒屋といったプロユース向けの食器展示場も設えた。いずれも現社長と野田さんの二人でインテリアデザインを考え、DIYしたものだという。

これだけの広さで展示してあるところも全国的に珍しく、わざわざ県外から訪れる業者も多いという。
展示場までの通路や壁に目をやると、カラフルな陶片が随所に埋め込まれている。なんとこれは、須美子さんがご自身でされたもの。業者の仕上がりに納得がいかず、猛暑でふらふらになりながらもやり直したらしい。

よきビジネスパートナー同士でもある社長夫妻。プライベートのことを少しうかがうと、須美子さんの実家で、お母さんや家族と一緒に囲む食卓がとても大好きなのだそう。「時間があるときは、娘たちとよく遊んであげてくれます。どっちが子どもか分からなくなるぐらい(笑)。おかげで大きくなった今でも親子仲良しですよ」と目を細める須美子さん。
看板の向こう側にあったワンダーな「丸兄」の世界。その裏側には、親子それぞれの家族の形があったのだなぁと感じる。“商売”を真ん中にして広がった輪は陶器のように美しく、硬い。
ときに遊び心も添えながら「陶器市のデパート」としての風格をこれからも保っていくのだろう。


取材協力
株式会社 丸兄商社
佐賀県西松浦郡有田町中樽1丁目4−28
0955-42-3052












